老いると楽になる。

エッセイ

老いると、ひとが丸くなり、おだやかに老後を送るひとがいる。

一方で、性格がしぶくなるひとがいる。

文学者でも、老境を静かにすごしたひとは、みな手放すことを知っているようだ。例えば、文体とか、例えば、構成とか。

老人も色々だが、好好爺になるには方法はあるようだ。

手放すと楽になる。

ある有名なスピリチャル系のブロガーさんのブログを読んでいると、歳を取るほど楽になると書いてあった。

そのブロガーさんはもう七十歳くらいで、振り返ると、二十代、三十代のころがもっとも苦しかったそうだ。

若いというのは、自分が何者かが分からないし(そんなもの歳を取ってもわからない)、何者かになれると思い込んでいる、それが辛い。必死に何かを獲得しようと励むが、けっきょくそんなもの幻想でしかないので、そりゃ辛いわな、ということだ。

私はいま三十六歳だけれど、二十代に比べると、格段に楽だ。何かを追い求めることは確かにまだあるが、自分にも世の中にも過度な期待をしなくなって、だいぶ楽になった。

歳をとって楽になるといっても、それは一概にはいえない。例えば、経済的に苦しいとか、急に一人暮らしをしなければならなくなったといったら、たとえ、七十歳でいろんなことに諦めがついていても辛いものだ。

しかし、とあえて強調するなら、それでも年取っていろんなことが感じられなくなり、想像力も落ち着きを見せたら、若い頃、感受性だけが鋭い時期に比べると、やはり楽な部分もあるとは思う。

諦めがつく、というのは、哲学でもあるが、同時に体質的なもの。三十を超えて、体も衰えてくると、いろいろとあきらめを学び始める。

諦めるというのは、そう悪いことではない。昔、見たアニメ、ドラえもんでのび太がしずかちゃんという女の子に強い執着を見せるので、ドラえもんが「人間あきらめも大事」という場面がある。これはお笑いみたいなものだが、でも真実だと思う。

私は井伏鱒二が好きなのだけれど、彼の文体の変遷を見て来ると、老い、というものがよく見えてくる。

若いころは、「新興芸術派」なんていわれて(井伏さんは若い頃からそういうカテゴライズにはまったく無関心だったが)文章にも凝っていた。

わざと諧謔をいれて、深刻さを外そうとしていた。深刻さを深刻に書かないというのは、文学のお作法のようなものだが、それでもちょっと野暮ったかった。

それが、三十歳を超えて「さざなみ軍記」のころになると(この作品は七年かけて中断を挟み書き上げられたらしい)文章が淡白になる。

前半部分はすこし、美文も意識されているが、後半部はほとんど単純な描写だ。劇的な出来事も淡々と記述される。

それによって、主人公の成長が描かれている。

井伏さんは、三十代でこの域にまで達していたが、老人になると、さらに淡白さが増していく。

「鞆の津茶会記」はすこし古風で、いまのひとにはちょっと読みづらく、渋みの手本のようになっている。

ほかに紀行記や日常の随筆が晩年には多くなるが、もうこうなると志賀直哉だ。志賀の文章がそうであるように、自分の個性に拘泥しない。

ただ、書いている。ただ、書く。

これはすさまじい。老いのすごさといえる。

これは、井伏さんと交流のあった、庄野潤三、小沼丹、三浦哲郎にもいえることだ。

庄野さんなんか、晩年、もう日記しか書かなかった。そして、老いた自分の日常を楽しんでいる(実際にそうなのだろう、楽しんだ「ふり」というものは庄野さんにはふさわしくないように思われる)。

老いにも色々だ。円覚寺の老師がおっっしゃっていたが、老いて渋くなるひと(性格が悪くなるひと)もいる。

一方でいい老いも確かにある。

私も老人を何人か知っているが、「いい老い」のひとは手放しているものが多いようだ。

では、また!

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