欲望は際限がない。貪欲、傲慢、虚栄心に気をつけること。

エッセイ

欲望には、際限がない。貪欲、傲慢、虚栄心、そういったものは、人間の宿痾でたいそうコントロールの難しいものだ。

私は、最近、英語が飛躍的に伸びた。それによって、様々な夢や欲望が動いたが、庄野潤三やリルケならどうしたろうか。

貪欲にも気をつけないと詩人としての在り方を見失う。

貪欲、傲慢、虚栄心、それから自己主張からも遠い詩人。

語学力というのは、継続さえしていれば飛躍的に発展する時期があるもので、当然、その段階にいたれば誰だって達成感で自信もつくし、興奮して夜も眠れないということもあるだろう。

ここ数か月、私はまさにその状態にあって、英語力が目覚ましい発展を見せてので、いろいろと将来に対して計画やら妄想やらでかなり忙しかった。妄想はいまもって続いているので、現在も忙しいことには変わりはない。

現金なものだ、英語が未発達なころは、目標も夢も普段考えていることもローカルなものに限られていたのに、少し語学力がついただけで、もう国際人になったかのように大きい顔をしている。

欲望というのは際限がないとはよくいうが、実際、ちょっとした切掛けで、それは歯止めが効かなくなる。私自身、英語が夢を見させて、それが具体的な事業計画まで描かせ、空想はとんでもないところまで飛躍している。どういうわけか、アメリカの大統領とまで空想の中で対談しているのだ。

話は、少し変わるのだけれど、つい数時間前に、庄野潤三さんのエッセイをよんだ。彼のことはほかでも言及しているけれど、困ったときのなんとやらで、このときも結局は庄野さんに諭されたような形になった。

庄野さんは小説家だ、しかし、私は、彼は詩人であるとも思っている。庄野さんは詩人のリルケを好んだようだが、リルケは自分の詩人としての良心に忠実に生きたひとで、貪欲とか傲慢とは虚栄心というものを注意深く避けた、庄野さんもそういう意味でのとても良心的な詩人だ。もっとも、良心というと今日では、なにか迷信深いものを思わせ、あるいは安っぽいものをイメージさせてしまうけれど、庄野さんもリルケもそういう意味での良心とは無縁である。

さて、貪欲であるが、これがくせものだ。

さっき私は欲望にはきりがないといったけれど、もっともある程度大人であるなら、理性でももってこれはコントロールできるものだ。そうでなければ、だれひとり社会生活を送られない。

しかし、ルールの範囲内で、ということでも、ひとは際限なく貪欲になれる。そして、それがよいことだと称賛されることもしばしばだ。

私はユーチューブをよく見るけれど、インフルエンサーといわれるひとたちは、たいてい欲望に忠実に生きることを、自己主張することを称賛している。それはまあいい、そういうこともなければ、ときには病んでしまうし、まったくの間違いでもないとも私は思う。

けれど、生来のじじくささからか、これに心底から賛意を示すことができなかった。

庄野さんならどうしたろうか、リルケなら、と考えるときがある。

自己主張とは、彼らにはもっともふさわしくないように思うし、そんな言葉も彼らは使ったためしもない。

静かに、着実にというと口でいうのは簡単だが、実際これをやってみると生活というのは、騒々しいもので、自分の思うようにならないと気づく。そのうえで、あえて閑等を求めるひとはやはり少数だろう。

このエッセイを書いたのも、英語への貪欲が実際やりきれなくなって、ともかく整理をしたかったから。英語が悪いのではもちろんないけれど、あんまり欲張ると私自身、詩人になれなくなる。

庄野潤三、井伏鱒二、良寛、芭蕉、それからリルケ。そういうひとの背中を追い求めるのは実に愉快だ。しかし、そうなると、自然、自己主張からは遠くなる。一種の行で、これはこれでつらいのだ。

では、また!

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