腹が減ったときに、腹が減ったというだけのエッセイ。

エッセイ

いつものことだけれど、早起きしたので、いま、腹が減っている。

これも、腹が減ったというだけのエッセイになりそうだ。

現代人にとって空腹はもう異常事態だ。腹が減ったら何か補給しなければならない。

江戸時代、百姓はずっと空腹だった。それで世の無常を悟ることもそれで多かったことだろう。

腹が減るのが、異常事態になった現代人。

これを書いているのが、午前の十時半、その前に二千字ほど執筆をして、あと一時間ほど散歩をした。朝起きたのが六時で、ご飯を食べたのが六時半。それから軽い掃除もした。

こんなふうに書くといかにも健康で満ち足りたような人間に思われる。いや、健康には違いない。大げさな持病もあるにはあるが、生活の全般的な面では、健康ではるようだ。

昔のひとなら、「腹がへるのは、健康な証拠」というだろう。

私はうつ病も経験したことがあるが、病気によっては極端に食欲がなくなることがある。食欲はあっても、食事を作る意欲も、外食をする元気もなくなり、けっきょく食べたくても食べないということも起こりうる。

腹が減って、滞りなく食事ができるなら、もう健康だと思った方がいい。腹が減るとは喜ばしいことだ。

しかし、「腹が減るのは健康な証拠」と喜んでいられたらいいが、やはり、腹が減るのは嘆かわしいことだ。まず元気がでない。ついでに何事も面倒くさくなる。生きて行くことは何につれ面倒くさいことだが、腹が減るとその度合いが増してくる。買い物に行かねばならないが、誰かが代わりに行ってくれないかなと、わがままな考えになってしまう。

けれど、こっちはひとり暮らしときているので、買い物にいかなければ、困るのは私ひとりだ。

カトリックには断食の習慣がある。イエスの受難を思って、ある一定の期間のある曜日に肉食を禁じるのだ。断食は、中世にはもっと苛烈を極めた。それこそ一日に何も取らない日もあったそうだ。

けれど、それも修道士など、それ専門に生活をしているようなひとでないと、そんな苦行は耐えられたものではない。みな仕事もしなければならんし、敵が攻めてくれば、武器を取って戦わなければならない。「断食中だから、休戦」なんてことは相手方はいってはくれない。

しかし、だいぶ簡略化したとはいえ、断食はつらいものだ。

何がつらいか、当たり前だが、腹が減るのがつらいのだ。腹が減ると、腹が減っているということばかり考えて、余計につらくなる。

これは、見方を変えると、腹が減るのが異常と思われるほど、私たちの生活は、食に満ちているのだ。

江戸時代の百姓は一日に一食か二食、それもかなりの粗食だった。仮に現代の人間が同じ生活をしろといわれ実行しても、一週間も持たないだろう。

昔の人間にとって空腹は当たり前だった。腹が減るのは異常事態ではないのだ。

と、いうことは、空腹に対する抵抗力も体に備わっていたはずで、わずかの贅沢が年に一度でもあると、それをありがたいと思ったのではないか。

もちろん、空腹は空腹だから、体力は限られてくる。体が弱るのも早い。それだけ死に近くなる。世の無常を悟るなんてことも、現代人の比ではなかったろう。

充分に食事ができるということはそれだけで、もちろん幸福なことではあるのだけれど、見落としている知恵もたくさんあることだろう。現代人が江戸時代の無学なお百姓よりも、本当の意味での「頭の良さ」を備えていうるかどうか、これも明確に答えられない。

しかし、それにしても腹が減った。腹が減ったら減ったなりのことが書けることをここまで書いてちょっと理解した。腹が減ったときほど、作業をすべきなのだ。もっと空腹が当たり前にならなければ。

それも、言うは易く行うは難し、昼飯に買ってきたお蕎麦をたんまり食べると、今日書いたことも忘れてしまう。

では、また!

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