やりたいことをやる場所も作っていかなければないないよね。

エッセイ

戦略を立てて、一応の方向性を決めてしまうと、好きなこと、やりたいことが制限されてしまう。

しかし、アーティストならば、自由に自分の幅を広げられるような場所も必要で、私にとってそれはこのブログなのだ。

誰かに、観られるとか、評価されるというのはここでは重要ではない。

やりたいことをやるだけのブログ。

一か月くらい前から、落合陽一さんの「半歩先を読む思考法」というエッセイ集を読んでいて、彼の自由な文章に触れるたびに、自分の好きなことだけを書く場所も必要と思うようになった。

私はまだ、物書きとしも準備段階で、それで収入が発生しているわけでもないが、それでも、戦略を練って、書くべき方向性を決めてしまうと、やりたいことができなくなってしまう。

これはもちろん必要なことで、ビジネスをやるなら誰もが一度や二度、いや、計画性がビジネスにつきものであるぶん、いつまでもこの宿痾はつきまとう。

それだけに、さっきも書いたように「自分が好きなこと」を披露する場所というのも、活動の範囲内に入れておく必要もある。それもいってみれば戦略だ。メンタルが解放されていなと、結局ビジネスも継続ができなくなってしまう。

私は、このブログでエッセイをずっと書いてきた。これは良い経験だった。

慣れるまで訓練が必要なことはどんな分野でも同じことで、私にとって、エッセイの訓練場は主にこのブログだった。

村上春樹もいっていることだけれど、エッセイは難しいのだ。それは小説家が小説を書くことよりもある面では難しいのだ。

単に起承転結がきれいに収まっていればそれでよいのでもないし、文章が綺麗なら合格というものでもない。そのひとの作家性というものが決められた文字数の内に体裁よくまとまって、ようやく「良いエッセイ」と呼ばれるようになる。

けれど、作家性なんてものは、体裁よくまとまらないものなのだ。結論に近づいているのに、答えがでないし、かといって、そのまま引き延ばしてしまえば、テーマから微妙にずれてしまったりとする。

そんなこともすっとばして、書く運動さえ表現できればそれで満足という作家もいるが、私はといえば、神経質に体裁にこだわってそのあたりの割り切りがうまくいかない。

しかし、ともかくも、量は書いてきて、エッセイの呼吸というものはおぼろげにつかめたようには思っている。

そうなると、また別の問題が出て来て、それは私の能力云々のことではなくて、検索エンジンとの兼ね合いで戦略を見直さなくてはならなくなったのだ。

私は好きなことでも、ともかく量をこなしておけば、検索エンジンの方も評価するだろうと思っていた。だが、それはもう数年も前の話で、いまはちゃんとビジネスとしての形をなさないものは、検索の上位には表示されないようになっているのだ。

私は、自分の書くべきスタイルを変えるか、書く場所を変えるかを選ばなくてはならなくなった。

答えはすぐに出た。ビジネス文書を書くことは、私にとってはかえってビジネスにならない、作家として食ってく、というのがまず大元の方針としてあるので、もうあとは書く場所を変え、そこでもう少し戦略的にやっていく方向に考えを変えたのだ。だから、このブログはもう好きなことをどしどしやって行くだけの遊び場にしてしまおうと思っている。

芸術家は真剣に遊んでいるひとだ、と誰か作家であたろうか、そう表現したひともいるが、真剣に遊ぶ場もこれから芸術家自身が見つけ出し、場合によっては自分でそのプラットフォームも築いていかねばならない。

表現とは、全人的なものだ。たとえすぐにそれが評価されないと分かっていても、自分の体がそれを必要と欲しているなら、発散させてやるのがいい。そのための自由な「場」の構築もアーティストには死活問題だ。

では、また!

コメント

タイトルとURLをコピーしました