無職の友達。無職になると、ひととの関りが減って来る。友達の捉え方も変わる。

joyful adult daughter greeting happy surprised senior mother in garden エッセイ
Photo by Andrea Piacquadio on Pexels.com

無職でも友達ができることはある。

当然だけれど、無職も長く続けば、ひとと会うのが億劫になるし、ひとと会う機会も減る。

そして、多くいた友達もごっそりと去って行く。それはそれでいい。

友達の捉え方も、その中で変わっていく。

そして、無職には無職なりの友達ができる。

無職の友達。ほっとひと息つく関係。

無職も長引けば、ひととの交流も減って来る。健康ならまだしも、病気などが原因で、失業している場合、たとえ親しい友達であっても会うのにも億劫になるし、恐れるようにもなる。

無職でも、そのひとなりに、ひとりで楽しめるものを持っていれば事情も変わってくるが、他人との関りを重視するひとは、無職は孤独に過ごす時間が長い分、けっこうタフに感じることが多くなる。

私は、も長い期間、無職だ。理由は、ほかのところでも書いているのでここでは語らないが、やはり、無職が長いと、無職者としてのアイデンティティーを持つもので、ちょっと卑屈になる。

元気で働いているひとに比べて、自分が身分的に低いような気もしてくる。もちろん、日本には身分制度なんてものはもうないし、そんなこと気にしたところで、誇大妄想以外の何ものでもない。

でも、言い換えたら、誇大妄想が起こるほど、私には考える時間がたくさんあるということだ。暇があれば、ひとは碌なことは考えないというが、なるほどと、うなずける。

で、碌なことを考えないから、ひとと会うこともできなし、友人もごっそりと私のもとから去って行く。でも悲しくはなかったな、誰もがそうであるように、友人関係といえでも、社交辞令的な付き合いがほとんどで、面倒なことも多い、病気をすると、それがスパッと切れる、さっぱりして気持ちよくもある。

一方で、新しい友達も欲しいと思う時もあるものだ。無職でいるから、もちろん、自分とメンタリティの良く合うひとがいい。

猛烈にビジネスに励んでいるような健康なひととは、何を話せばよいのか分からないし、そしてこういうひとは、無職でいる人間の気持ちは当然理解できない、こちらを見下して相手にもしないだろう。

でも、私はそれをわざわざ非難しようとも思わなくなった。無職も長引けば、良くも悪くも「世の中はそんなもんだ」というような諦念も生まれるもので、それを獲得さえできれば案外、楽。見下されて辛いが、仕方がないというような気持にもなる。おっさんなるということでもあるだろう、やっぱり、友達とするには相手はおっさんがいい。

私は、無職でもけっこう忙しくしていて、自分の計画を実現するために、分刻みで動いている。午前中はこうしてものを書いて、あとの時間は全部、勉強に回すのだ。

それでよく図書館に行く。図書館で私は、友達を見つけた。

といって、交流があるわけではない、何度か見かけただけだが、私のほうが勝手に自分の友達にしてしまっているのだ。

彼も明らかに無職者だった。サーファーのように長い髪をして、日に焼けている。いまは十二月だけれど、夏であるとき、彼はいつもビーチサンダルのようなものを履いていた。

机があいているとき、彼は雑誌を読む、何の雑誌か分からないが、椅子の上に胡坐をかいて、実に楽しそうに読んでいる。

無職を楽しむといえば、語弊があるかもしれないが、明らかに自分の楽しみは持っているようだった。

私は、彼とは友達になったけれど、話をしようとは思わない。彼が雑誌を読む横で、私は、英語の勉強をし、ちょっとした時間を共有するだけで、コーヒーを飲んでほっとひと息つくような安らぎを覚える。

ときどき、頭のなかで彼と会話する。「あんたいっつも、かたい本読んでるよね、頭疲れない?」と彼。「いや、難しい本読んだ方がよく眠れるんです」と私。

でも、そこには、無職ってつらいよね、なんて言葉はひとつも出て来ない。

では、また!

コメント

タイトルとURLをコピーしました