仕事の前の儀式。仕事を大切にするひとのお作法。

エッセイ

仕事の前に儀式を持っているひとがいる。

おそらく仕事を大切に考えているひとほど、儀式にこだわるのだろう。

儀式というのは、精神を整えるための作業だ。

ということはそういうひとは、仕事も精神的なものと捉えているのだろう。

お作法も、凝ったらけっこう気持ちいい。

仕事に取り掛かる前に、精神を整える。

野球選手のイチローは、バッターボックスに入る前に、必ず決まった動作をするらしい。それがないと感覚がにぶるのだそうだ。いってみれば儀式だ。

仕事をするまえに、いつも何か決まった作業をしないと落ち着かないというひとも多いと思う。

最近、朝活というものが流行っていて、出勤前に、カフェで集まって、読書会などをするそうだ。

そこで、モティベーションを整えて、会社に着く前には万全の状態にしておくらしい。

私のように引きこもり体質の人間からすると、かなりアグレッシブなようい思われて、感心してしまう。

もっとも、読書会に集まる理由なんてひとそれぞれだろうし、嫌な仕事の前にちょっとした気分転換でそれに参加しているひともいるだろう。

実は、私も仕事の前に「儀式」をするのが好きだ。

二十歳くらいのとき、リハビリセンターに通っていた。仕事ではないのだが、職場に似たような環境で、仕事のようなことをしていた。

朝、そこにつく前に、私は五時くらいにマクドナルドに行って司馬遼太郎の小説を読むのが習わしだった。私は司馬小説の大ファンだった。

司馬さんは、理性的な人物を評価する、その反対に精神論に走る人物を毛嫌いするのだ。織田信長、豊臣秀吉、坂本龍馬、高杉晋作、みな理性的な人物として描かれている、そのくせ性格が非常に淡白なのだ、司馬さんふうにいえば「からっと」している。

また、その英雄志向的なところもいい。英雄というのは、みなごく若い時に英雄を志す、そして自分が英雄であることを知っている。

私は影響を非常に受けやすいタイプで、司馬小説を読んだあとは、必ず自分も英雄になったような気がしていた。坂本龍馬のように「日本を洗濯する」と道々つぶやいていたかもしれない。

あのときは幸せだった。そして、英雄みたいな顔をして、リハビリセンターに行くのだ。

儀式というのはでも、ちょっとしたきっかけで崩れてしまう。仕事が変わったり、病気をしたりすると、途端に生活のリズムも変わる。

そして、それはけっこう辛い。体が慣れないので、いらないことを考えて不安になったりする。

仕事に慣れて、早く新しい儀式を見つけなければならない。

私もリハビリセンターをやめてから、儀式はなくなった。司馬小説も読まなくなった。

代わりに作家になりたいと思うようになって、そのための儀式はちょいちょいやるようになった。あまり意識しないけれど。

作家の井伏鱒二は晩年、小説を書く前に、ハガキや手紙を書いていたそうだ。文章を書くちょっとした用事を済ませてから、仕事に取り掛かると、進捗が良いということだった。

文章というのは、リズムがある。ということは、リズムが狂う時もあるということだ。ちょっとした体調不良や寝不足だけでも、不調に陥ることがある。

でも、そんなときにも役立つのが「儀式」ということだ。

メディアアーティストで研究者の落合陽一さんは、文章につまったとき、村上春樹を読んでいたそうだ。

誰でも物書きなら、自分の体質にあった作家というものがいる。

私の場合、原民喜や梶井基次郎の文章が、ものを書く気分にさせてくれることが多く、電子書籍で簡単に見られるように工夫している。あるいは、ブログを書く時には、好みの日記ブログを回遊したりしている。これも儀式だろう。

私の思い込みかもしれないが、仕事をするのが好きなひとほど儀式にこだわるように思う。

儀式とは精神を整えるための作業だ。そういうひとは、仕事も精神的なものと考えているのだろう。

では、また!

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