伝統を重んじるこころ。システムだけでは人間は生きては行けない。

エッセイ

伝統という言葉はもう死語に近づいているのではないかと思う時がある。

伝統を重んじるなど、効率を求めるひとからすると眉唾ものだろう。

でも、人間はシステムだけでは生きて行けないのは、ニ十世紀に我々はすでに経験している。

伝統がないところには精神もない。

伝統がないところには、精神もない。

伝統とはなんだろうか。先日も高橋保行の「イコンのこころ」を読んだ。

彼の本はほかにも何冊か読んだが、強調されているのはやはり正教会の伝統だった。

正教会はカトリックと同じで古い歴史がある。

中世に大シスマと呼ばれる分裂が起きるまで、色々と対立があるなかも、ともかくともに歩もうとしてきた。乱暴にいってしまえば母体は同じということだ。

カトリックも伝統を重んじるが、正教会もそれ以上に伝統に忠実であろうとする。

その精神はイコンの表現にもあらわれている。イコンは画家の自由な発想に任されるではなくて、型はすでに古い時代に決まっているのだ。そこから逸脱するものは、絵画としては良くても、イコンとしては認められない。

私もイコンを写真や映像でみたことはあるが、一見して非常に単純な線と色とでできていることが分かる。それだけに表現が難しいということもあるだろう、あるいは、それだけに伝統に厳格ともとれる。

絵画表現もちろん時代とともに、技術も向上するし、表現技法も変わって来る。

しかし、イコンは、依然として中世のままだ、そして、中世は古代を模倣としているので、古代のままといってよいかもしれない。

伝統を支えるのはもちろん人間であるので、人間が育たなければならない。父から子へと、師から弟子へと受け継がれていかなくてはならない。

そこには、システムが必要だ。教会も乱暴にいってしまえば、システムともいえる。組織というのもシステムだ。

そして、このシステムも伝統の内に働いて、精神が宿る。正教会の精神は、もちろん、教会にあって、教会の指導のもとイコンは描かれ、技術の継承がなされている。

精神というものを現代の組織に見ることは非常に難しくなってきている。つまり、いいかえれば、伝統をないがしろにしているということだ。

寿司職人になろうと思ったら、数年はまず下働きをしなければならない。でも効率を重んじる人から見ると、これはあきらかに時間の無駄だ。掃除後片付けをしている暇があるのなら、さっさとマニュアルで寿司の握り方を覚えた方が話は早いし、職人も早く育つので、合理的だ。

でも、この考えには当然だけれど、精神は宿らない。システムしかない。左から右へ流すだけの作業しかそこにはない。

精魂こめた料理も、システムで効率化した料理もまったくの同じ味なら、それで客も文句はないだろうが、そうはならないし、客の方も、味だけでなく、ストーリーを求めている。

いっぱしの料理屋にはいっぱしのストーリーがある、それを込みで客は高い金を払って店に来るのだ。

ストーリーを伝統といってもいいし、精神といいかえてもいい。

しかし、現代ではこういう考え方はもう古いとされる。

とにかく、変化することが求められて、新しいものが生まれたら、それに飛びつく。そして、そういう考えが確かに早く結果を生み出しやすいので、伝統というのが何か迷信めいたものや、危ういもののようにいわれてしまう。

確かに、伝統が、発展に足かせになることはあるだろう。

正教会が国の宗教となっている国々は経済的にも立ち遅れたところが多い。高橋保行氏は、それは発展よりも正教の伝統を重んじたからだ、と著書で主張されている。

そう考えると、伝統というのは、確かに危うい、発展を重んじるひとからすると、眉唾ものだが、一方で人間がシステムだけで生きていけないのは、二十世紀にすでに私たちはもう経験しているだ。

では、また!

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