歴史は変わる。変化を受け入れることは、人間の持つ最大の能力。

エッセイ

歴史の本を見るまでもなく、ひとつの国が繁栄をいつまでも継続できないことは、常識的にみなが知っていることだ。

しかし、そうはいわれても、変化というものに、ひとは恐怖する。

一方、歴史は市民の図太さも伝えている。

人間の最大の武器は順応。そのことに信頼してみても良いかもしれない。

世界が変わっても、人間は順応して生きていく。

世界史は、モンゴル帝国から始まったとの見方もあるらしい。

あるいは、歴史に詳しいひとにとってそれは常識的なことなんだろう。

先日、宮崎正勝さんの「世界史の誕生とイスラーム」(原書房)という本を読んだ。著者は、高校で世界史の教師をしたのち、大学でも教鞭をとっておられる。

モンゴルから世界史は始まったという考え方に、著者は、賛成しない、モンゴル帝国が現れる前に、すでに、イスラームでは大経済圏が存在し、モンゴル帝国の流通システムもイスラームの制度を踏襲したに過ぎないからだ。

多民族共生、多文化理解、国の枠を超えた経済、グローバル化した現代ではこういう理念はなんら珍しくないが、すでに一千年も前の中東で、同じようなダイナミックなことは起こっていたのだ。

で、私は、ここで、歴史の講義をしようとしているのだろうか。もちろんそうではない、私には、そうするだけの知識もないし、学校の先生のような資格もない、私は、結局は、世の中すべて変わっていくんだよね、というところをほんの少し書いて行きたい。

イスラームに大商業圏が発達したことは、先にも触れたけれど、それは、ひとつの帝国の版図内で完結するものではなく、複数の民族、文化の領域をまたぐものだった。

政治的な影響はむしろ弱く、度重なる外圧や、内紛など、政治的混乱があっても、経済は発展し続けている。

しかし、繁栄を謳歌したイスラーム世界も、モンゴル帝国の勃興、そして、その侵略を受けて、衰退を見せ始める。

国の繫栄はいつまでも、ひとつところにとどまらないというのは、歴史を見えればすぐに分かること。いまはアメリカが一応は世界でもっとも豊かな国とされているが、それ以前は、イギリスだったし、イギリスの前はオランダであったり、スペインであったりする。

そして、西欧が力をもったのは、ほとんど、近代になったからで、それ以前では、世界史の中心は常にアジアにあった。

こう考えれば、いま繁栄を極めている国々(もちろん日本も含まれる)にいる人々は何かしらの不安を覚えないだろうか。

アメリカにしろヨーロッパの国々にしろ、かつての栄光はそこにはないし、その価値観を追い求めて発展してきた日本も、だいぶ翳りが見えている。

その代りに、アジアがまた力をつけてきているし、その中には、西洋的な価値観へのあからさまな対抗意識を見せる国もある。

しかし、アジアの発展にしても、はたして、どの程度のものか、いつまで続くのか、あるいはもう終わりに差し掛かっているといひともいて、この先のことは不透明だ。

おそらく、かつての時代にくらべて、どの国が勝つか、見えないところは、現代の方が大きい。

いま起きている変化は大きいし、しかも、それの変化のスピードも増している。

国の単位でも、目覚ましく色々なものが変わってきているのに、そこに住む市民は、さらに変わることへの不安にさいなまれている。私たち自身が変わらなければ、生活が成り立たなくなる。

いわば、変化への強要だ。

歴史から何を学べるだろうか、例えば、新しい潮流が生まれたときに、勝ち馬に乗るという方式で、それに飛びつくべきだろうか。それもひとつの方法だと私は思う。

しかし、歴史が語るのは、市民とは変化に順応するというものだ。

ある国から侵略を受けて、流浪を選ばざるをえない民は、新しい土地で、ともかくも生きていかねばならない。

順応というのは、人間の持つ最大の能力だ。

では、また!

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