作家の落ち着いた生活。規則正しい生活と作品との関係。

エッセイ

作家のなかには、意識的に、落ち着いた生活をしようと心がけるひとがる。

そして、当然ながら、規則正しい生活は作品にも影響してくるものだ。相関関係がある。

庄野潤三さんは、自覚的に、静かに生きようとした作家のひとりだ。

彼の個性的な作品は、彼の生活の反映となっている。

落ち着いた生活は、作家の個性を磨く。

私の好きな作家に、庄野潤三さんがいる。

彼は、文学史に燦然と輝く偉大な作家、というわけではない。

けれども、彼の書いた作品は、同世代の他の作家とも趣が大きく違うし、彼の文学の師匠筋である、井伏鱒二や詩人の伊東静雄、あるいは、チェーホフとも雰囲気が大きく違う。

ある評論家は、彼を「独特な作家」といったが、確かにそうとしかいえないようなところがある。

彼の作品は、真似しようと思ってもなかなかできないのだ。そういう意味で、庄野さんは、優れた非常に個性的な作家なのだ。

では、庄野さんの「独特な」作品はどうやって生まれたのだろうか。

彼のエッセイを読むと、彼は、はやくに布団に入るらしい。家族と夕食を取ったあと、酒を少し飲んで、眠たくなったらもう寝てしまうのだ。

彼の作家仲間は、彼がそんなに早く寝ることに気を使って、夜にはあまり電話をしないのだそうだ。ときどき何かの用事で電話があっても庄野さんの電話の相手は、彼を起こしたのではないかと、申し訳ないような声を出すのだと、エッセイにあった。

さらにおもしろいのは、庄野さんのほうも電話を掛ける時間に気を使うことがあると書いていることだった。

彼は、早くに寝てしまうので、当然、翌朝は早くに起きる。庄野さんは、規則正しい生活を送っている。

こういうことは、勤め人には当たり前のことだけれど、当時の作家の間では、早寝早起きは常識的なことではなかった。作家は夜型が多い、昼近くまで寝て、日中を悶々と悩みながら過ごし、日が暮れてからようやく筆を執るのだ。そうして、朝まで書く。

そんなんだから、庄野さんとは、生活のリズムが合わない。彼が、昼近くになって、友人の作家に電話を掛けると、友人はいま起きてきたような声で応対に出るということもあったのだそうだ。

だから、電話の時間に気を使うと書いてあった。

私は、こういうところに、庄野さんの文学への姿勢が見えると思うのだ。

落ち着いた規則正しい生活は、思っているより難しい。

表面上は、一応、整った生活はできていても、内面はいろいろな計算や思惑で荒んでいることも珍しくない。

詩人のリルケは「芸術家は計算をしない」といったが、庄野さんもリルケが好きだった。

きっと、彼は、リルケの考えに大いに賛同したんだろう、彼のエッセイや小説からは、作家としての野心とか、虚栄心とかといったものは感じられない。

計算というものを自我意識と言い換えると、庄野さんは、長い作家生活の中で、徐々にそして自覚的に、そうしたものを手放していったのだ。

そして、彼の、一見静かと思われる生活なしには、そうした事業もなしえなかっただろう。

あらためて思うのは、良い小説(ひとの真実の姿を書いた小説)というのは、落ち着いた生活のなかでしか見いだせないものだ。

無頼派の小説がいけないといっているのではなくて、人間の精神性の規律や規範、ひとの生きるべき姿を描く場合、作家も自分の生活をその闘いのもとに置かなくてはならず、無頼派が人生を放蕩に費やすのとは、事情がまったく違ってくるのだ。

人間には、色々な側面がある。ていたらくには、ていたらくにしか分からない悲しみがある。

同じように、毎日を静けさに徹しようとするひとには、そういう姿勢でなければ見えない景色もあるのだ。

けれど、はっきりといえることは、作家として、長く活動するには、落ち着いた生活は意識的選ばなくてはならない、ということ。

では、また!

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