書くことの喜び。書くことは音楽、その快感。

blank paper with pen and coffee cup on wood table エッセイ
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書くことにも快感はある。

言葉には、音があるので、それが連続すると、メロディとなるのだ。

役者は、三日やるとやめられなくなるというが、それは彼の体が音楽を刻んでいるから。

小説を書くことも同じ。彼の体は楽器となっている。

そして、音は脳を刺激してやめない。

書くことは、音楽と同じ。言葉の連続はメロディとなる、それが快感。

ひとつの職業を長いこと続けていたら、その仕事に対して愛着は生まれるものだ。

それが職人であれ、営業職であれ、十年も続ければ、ひとつひとつの作業はもう彼の骨肉となっている。

寿司職人にとって指の動きは、音楽だ。ピアニストが鍵盤を打つときのように、彼はもう頭でいちいちの動作を考えないで済む。

慣れた営業マンのトークは彼の計算の域を超えて、もう彼の人格から出ている。

あるいは、趣味でもいい。趣味も長く続けていれば、それがそのひとのアイデンティティとなる。

絵を描く人は、仮に十年何か描き続けたなら、もう彼の頭は、充分に絵描きとなっている。

会社に行く道すがら、あるいは仕事の合間にふと、描くべきテーマが見つかったりする。

そして、それが喜びなのだ。

なんであれ、長期に渡って、毎日のように続けるものがあるひとは、業を背負っているといっていいだろう。

モネが、妻の臨終にあっても、絵を描き続けたように、彼には、やむにやれぬものが芽生えてしまっているのだ。

書くことも、他の芸術的な営為となんら変わらず、やはりそこには病が潜んでいる。

これに没入すると、もうやめられない、やめたくとも、自分の意志ではどうしようなくなってしまう。

しかも、困ったことに、それがまた喜びでもあるのだ。

書くことの喜びとは、けして、楽天家の思い描く気楽なものではない。もっと深刻で、重厚で、そして、いやらしいものだ。でも、喜びであることには変わりはない。

私はここで、書くということを、小説の執筆に限定している。

評論を書いたり、ビジネス書を書くことに対して私は無知であるので、そういう作業にも私がいうような業、その喜びがはたして当てはまるものなのかは、私は分からない。

けれど、想像するに、書くことはそれがいかなるものであっても、言葉とはつきまとうものだ、きっと小説であれ、ビジネス書であれ、共通するところはあるだろう。

書くとは、ひとつの音楽だ。タイプを打つ、あるいは、鉛筆で紙に書くにしろ、言葉を刻むということは、音の流れを再現することだ。

誰もが知るように、言葉には音がある。それが連続するとメロディとなる。

そして、小説とは、このひとつひとつのメロディを起点に、世界観を広げて行く作業のことだ。

役者は、三日やったらやめられないとはいわれているが、それは体がメロディを奏でているからだ。彼らは身体を楽器にしている。

それと同じことが、小説にも当てはめることはできるだろう、執筆に慣れてきたら、彼の体内に流れる独特な音の連続が、彼の脳に快感をもたらし始める。

文学に執着し、そこから逃れられなくなるひとは、何かの高尚な理由があるからではなく(もちろん、それも否定できない、真の作家というのは、必ず使命をもっているものだ)こういう快感にどうしようも手の打ちどころがないことが原因であると私は考えている。

そして、感度の鋭いひと、音楽的なセンスのあるひと、こういうひとたちほど、文学に愛着を覚えだすと、やめられなくなる、快感を手放せなくなる。

でも、もしそうなったなら、引き受けるしかない。

やめられない、とはそこに道があると考えることはできる。

毎日のように書き、それを十年、二十年と続けられるひとはそう多くはない。運命といっていい。

そして、それを受け入れると、それも喜びとなる。

それは一時の快感ではなくて、もっと重厚で深刻で、スピリチャルなものだ。

では、また!

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